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働き続けて

▼ はじめて振り返ってみました ▼
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私はすでに46。大学卒業以来ずっと同じ職場で働き続けています。
子供は大学1年と高校2年の男の子2人。
旦那は大学の1年先輩で今は同じ職場の6階と7階で働いています。

ただただ、一度退職すると女が復帰するのは苦労すると考え、とにかく働き続けることしか考えていませんでした。

今、改めて自分の来た道を振り返ってみました。
そして大学卒業以来ずっと同じところで勤め続けてこれたのも、何か運命的なものを感じているところです。

 ▼ まだ若かりし頃。就職難はいつの世も・・・▼
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大学は薬学部。学生時代に行った錠剤を数えるだけの病院実習で、『薬剤師にはなりたくたい、大学院に行きたい』と思いました。

大卒より短大卒の方が就職率が良かった時代。それでなくても、「女子の就職率は悪いんだから、大学院なんかに行ったら、どこにも就職できないぞ」と回りから脅されたんだっけ。

大学院は定員枠以上の応募者で、「男子に譲ってやってくれ」と言われ、あっさり諦め、製薬会社の研究所等の研究職を探しました。なかなか募集している会社も見つからない時、卒論教室の教授のところに、医学部の研究室から女子が欲しいと電話がありました。

忙しい教授で、「今日なら空いているからすぐに面接に」と言われ、実験用のみすぼらしい普段着のブラウス、スカート姿のまま、田舎の大学から都会のど真ん中の、今の職場まで面接に行きました。

教授が気に入ってくれてあっさり、OK。 
給料は安かったものの、「こういうポジションはなかなか見つかるものではない」と言われ、そういうものかと素直に決定したのです。 
まあ、自宅通勤だったし・・・。

後で知った話が、この職は高卒の職、給与はそこから4年たった金額。
最初は「だまされたあ~」って感じですよね。他の教室はみな高卒。
大卒は最初からもう1階級上の職位につけてもらっているのですもの。

最初に辞めてやろうと思ったのはこの時でした。
でも、就職難であったことも考え、(ここで続かなきゃ、何処行っても続かないかも・・・)って考え直してみることに。

▼ 若いうちは何でも出来る、新婚時代こそが肝心かも   ▼
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研究室ですから研究できると思いきや、最初は下っ端の雑務ばかり。いつのまにか〆切過ぎて、どうにもならなくなっていた教科書の原稿書きのために、教授の脇で口述筆記の仕事をしました。

規程は9時~17時で、土曜も毎週14時半までの勤務でしたが、だいたい毎日20時までの残業はともかく、「平日は落ち着かなくて仕事が進まない」という教授からの要望で、休日も勤務のフル操業。若かったっから、辛くもなかったし、それなりに面白かったかな。

その時いた秘書が寿退職で辞めて、次がみつからないまま私が、見よう見真似で、秘書役を務めることになったのです。事務秘書がみつかってからも、学術的秘書の部分をメインに教授付に。
私の「天職だったのかもしれない!」くらい充実していました。

5年後、学生時代から付き合っていた今の旦那と結婚。
幸いにも、実家のすぐ近くにあった職員住宅の、たまたまできた空室に入居しました。旦那の勤務先が1時間半以上、遠いこともあり残業OKで、勤めはそのまま続けられました。

この時、最初は何も手伝ってくれなかった旦那。
私が台所に立っているのに一人の~んびりと新聞を読んでいる。すかさず、「ね~え、そこの洗濯物たたんでおいて~。」

新婚の時こそうまく頼んで手伝ってもらう工夫(?)
何から何まで家事全部やっていたら体はもちません。
生来の「立ってる者は親でも使え」というなまぐさも手伝って、共働きはうまく成立。

仕事では、教授からの信頼は厚く、すごく期待されてはいたものの、他の教室員からは、ねたみも多く「報われないなあ」と思うことも・・・。
でもね、一番上の人から信頼されてるなら、まあ、どこに行っても大なり小なり苦労するのは同じよ。
ここまで築き上げて来たものを捨てても、バカバカしいよねって。

▼ じいさん、ばあさんいつまでも若くない ▼
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半年後、子供が出来たのがわかり、教室始まって以来初めての産休を願い出て、難なくOK。
つわりもまったくなく、通勤も早目に出れば始発で座ってらっく楽です。
産休は産前産後4週の時代。

初産はたいてい遅れるから、産前は予定日に合わせて休むと、欠勤になるからと半強制的に言われ、結局2週+4週。

臨月の時には京都まで、教授の代理で会議に出張させられ、旦那がえらく心配してたっけ。
本人はいたって平気、初めてのグリーン車に緊張したけど・・。

さて、うちの親にとっては初孫ということもあり、実家も歩いて10分だったので、最初はどちらが言うともなく、当然のごとく両親がみてくれることになりました。外で働いたことのない母が、「女は出産から老けていくから、きちんとお化粧して身綺麗にしていきなさい。親が見ているんだから、仕事はきちんとやっておいでよ」と、一言だけアドバイスをくれたのです。

仕事場も6時までやっていると、「もう帰っても良いよ」と言ってくれるようになり、下の子が出来るまでは楽勝の毎日。

ここで甘え過ぎたのがよくなかったのかもしれません。
ここからが、今から思えば大変な日々の始まりでした。
両親の老化も日々進行し、上の子が2才にならない、おむつがとれないうちに下の子が出来、「2人も見切れん」と愛想をつかされ、ど~んと突き落とされちゃった。(ここまで、やってきたのに)、今更・・・です。

「一番可愛い時期を一緒にいてやらないで、かわいそうだよ。
旦那の勤め先の近くに、アパートを借りて、子育てすれば」とまで実母に言われ、「働いたことのない人にはわからないんだなあ」なんて、しみじみ思いました。

「ずっと一緒にいなくたって、密度を濃くすればいいんだ。絶対やってみせる!」なんて強情張りの私はそう、意を決しました。

▼ 道はかならず開けるのかも ▼
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下の子の産休中は毎日暗~い保育園捜し。
産休といっても、職場から送られてくる翻訳依頼の書類の山に、奮闘する毎日。 「通勤時間がないだけ良かった」っていうだけ。お給料をもらっても、何の後ろめたさも感じないような産休でした。

保育園は年度途中の募集はなく、産休明けから3月末までの2ヶ月間は緊急一時保育というシステムを、やっとみつけました。

0才児保育のある数少ない公立保育園、でも延長保育はない。
送り迎えも「NO!」という両親に諦めて、無認可保育園捜し。
上の子も2才児クラスの1名募集に、産科のベッドで嘆願書を書きまくる。

そう、役所の人の「産まれてからでなくては応募できない」。
それは当たり前のことなのでしょうが、入れなければ辞めざるを得ない状況下にある身としては、その言葉がすご~くつめた~く聞こえました。
 
「他人に子供を預けるなんて」と、旦那も最初は乗り気ではなく、私一人が必死に。「自分が一番不幸だ」なんて思ってしまったことも。

こんな精神状態、「子供に絶対良くない!」と思ったその時、下の子が、おっぱいしゃぶりながら、(にっこり)笑ったのです。まだ目も開かないうちに・・・、上の子にはなかった経験。 (この子も応援してくれてる!)って、思ってしまいました。

でもね、いざ産休が明けてからの緊急のお宅では、とても良くして下さり、大雪の日に、前と後ろに子供を結わえつけて連れていったのも、今は懐かしい。 タフだったよね。

慣らし保育があるかと思いきや、「最初の1日は泣かせておけば良いんです。諦めますから」って。
無くては居ても立ってもいられなかった、「スヌーピーのぬいぐるみ」もちょっと目を離したすきに隠されて、しばらく捜していたものの、難なく卒業。信じられませんでした。さっすが、先輩!

毎日のお弁当作りも始まり、たいしたおかずではないけれど、ごはんは一口で食べられるおにぎりに、一人できれいに食べられるような工夫はかかしませんでした。

話を伺うと、緊急に預けるような家庭では、ビニールに入ったゆでうどん1玉持って来て、「これ食べさせておいて下さい」という感じが多いとか。

「貴女の子は幸せよ」と言われて、それが続けていく自信にもなりました。時々は、その方の手作りのお料理を食べさせて頂いたりもして、恵まれていましたねえ、ホントに。(ずっとそのお宅で見てもらえたら)って思ったくらいだけど、それは許されず、4月からは保育園へ。

旦那?会社の通勤時間の関係で送り迎えはまったく出来なかったけど洗濯を主に、家事はずいぶん手伝ってくれるようになりました。

▼ 続けることなの?収入なの?子供は大丈夫なの? ▼
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保育園2つ掛け持ちで、保育料もばかにならない。
私の給料は消えていく。自分の子供を預けてまでの価値があるのか、虚しさを感じたのはこの時。 毎日が問答の連続でした。でもね、(なんのためにここまで続けてきたんだよ、やれるだけやるっきゃ。)

ころころと変わる環境に、上の子がむずがっただけではなく、慣らし保育も終わらないうちに風邪ひきさんになりました。そうして、子供が行っては休みの生活に、夫婦どちらが休みをとるかで、喧嘩になりそうになったことも。
 
あまりの微熱続きに、もうダメかと思っているところに、とうとう主人の実家から義母が出てきてくれることに。罰当たりにも、狭い襖一枚へだてた部屋での寝起きが、少しだけうっとおしく感じてしまったこともありました。-ごめんなさいね、おかあさん。-

3ヶ月も、別居生活をさせてしまい申し訳なかったと、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

下の子が1才を過ぎてからは、同じ熱を出しても気持ちに余裕が持てるようになりました。
なぜかって?それはね、「休んでばかりいたら、仕事が・・・」なんて思っちゃ損だ!って気がついたんです。

普段預けていて、子供と一緒に過ごしたくても過ごせないわけじゃあないですか。休日は家事に追われ・・・。

そこで、(これは神様が、子供と触れ合うために必要だと思われて、下さった時間なのだ)あるいは、(子供たちが、母親を必要として呼んでいるんだ)って考える様になりました。そうしたら一日中、家の中にいなければならないわけですが、子供と楽しく過ごせるし、自分の休息にもなるし、とっても気分がリラックス。

保育園時代から、学童までの連絡帳、二人分で段ボール箱いっぱいあります。
日記を書くと3日も続かない私が、まわりがあきれる位、毎日たくさん書きました。私が書いてくるからと、先生も園での様子をたくさん書いて下さり、今では旦那も認める我が家の「宝」となっていますよ。

中でも「一番愛している人は『おかあさん』って言ってますよ」なんてネ!
最高のプレゼントじゃないですか!
小学校に上がるまでの、一番可愛い母親を必要としてくれる時代です。
しっかり記録に残しておきたいですよね。

下の子を預けた無認可保育園も、幸か不幸か0才児専門保育園に変更のため建替に入り、ぼろアパートの1室を間借り。うちの子、「抱いてないと寝ない」と手がかかったのに、園児4、5人と小人数なのも幸いし、園長先生がとっても可愛がってくれました。

時々「間に合わな~い」と電話を入れると、うちの子おぶって、夕飯作りながら見てくれていたっけ。
上の子を迎えに行ってからだから、どうしても時間ぎりぎりか、過ぎてしまうのだけれど、上の子がむずかっている頃なんて、しばらく遊ばせておいてくれたりして。

疲れて帰るけど、ほっと一息できるだけで、私の気分も落ち着きました。
園長先生とは1年だけだったけど、卒園してからもたびたび顔を出し、「こんなに大きくなりました」って、今でもたまに遊びに行ってます。本当に良い保育園と出会えたってことですよね。

そうそう上の子が学校に上がるまでは、事務職扱いで9時、5時でしたが、「大変な時代を過ぎた」と言うことで教育職にあがり、自分の予定で動けるフレックスになりました。

その時ちょうど旦那も私と同じ職場に鞍替えして、一緒に通うようになり、保育園の送り迎えも一緒に。少し楽になりました。お迎えはやはり私の役でしたが・・・。

▼ アメリカって本当にキャリアウーマンの世界なの? ▼
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下の子が小学校に上がる年、仕事先から2年間アメリカに留学することになりました。本当は独身時代から、「次は君だからね」と何回も話はあったのですが、いつもその時になると「他の人を優先してやってくれ」と言われ、延び延びになっていたのです。
 
半分リフレッシュ休暇の様なニュアンスで、家族全員で行けることもありルンルンでした。

でも、子供たちは言葉の通じない世界に投げ込まれ、またまた苦労させてしまうことに。子供なんて半年あればべらべら話し出す、なんて嘘嘘。

子供にとって救いは、算数ができたこと。話せないからバカかと思ったら、算数がずば抜けてできる(普通なんですけどね)って。面白い反応でした。

とうとう、帰るという間際まで話せる様にはなりませんでしたが、結構、友達は出来、遊んでもらえるようにはなりました。お誕生会に呼んでもらったり。

やっと保育園の送り迎えがなくなったのに、田舎だったためか送り迎えは親が車ですることに。 一人で歩かせたら田舎とは言え、すぐ誘拐の世界ですから、「3メートル離れて歩いたらだめだ」って。

家の中でも、12歳以下の子供だけを残して出かけたら、法律違反で逮捕です。
13歳の子供を、ベビーシッターとして雇えば、良いらしいですけどね。
 
驚いたのは、『アメリカ』だから、子供を預ける施設が充実してるのかと思いきや、唯一『YMCA』の学童保育的な体操教室みたいなのがあっただけ。それも高い、高い、保育園なんてもんじゃない。

食費等の物価は安いのに、「何なのこれは?」って感じ。

夏休みも『デイキャンプ』という、体験教室(昼のみ)位しかなくひと夏(3ヶ月)子供2人で、100万以上かかってしまうくらいのお値段。でも、これは体験させてやりたいので、半分だけ預けることにしました。

キャリアウーマンなんて、ニューヨークみたいな大都会のど真ん中くらいのものなのかな。み~んな専業主婦で、働いている女性は皆、子供が大きくなった人達ばかりっていう感じ。

▼ 開き直り、思考の切り換えもある時は必要なのかも ▼
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仕事をしたくても、学校のある9時15時でしか動けず、もう開き直りです。
日本に戻ってから、勉強について行けなくならないようにと、通信教育の教材を送ってもらい、放課後はママとお勉強の時間になりました。
もちろん、ちょこちょこあちこちの公園、児童館、買物にはでかけて遊びましたよお~。

でも、この頃の習慣から、帰国してからも勉強はママの手作りの問題で。
受験の中3まで塾へは行かず、ママが帰宅するまでに問題をやっておき、夕食後毎晩ダイニングのテーブルで間違っているところを教えました。

いろいろ話しもできて、子供がどこが理解できないかもわかったし、塾に行かせるようになってからも、「中学受験したのですか?」って言われたくらい、身についていたみたいだし。

帰国してからはせっかく苦労した2年間が無駄にならないように、中学に上がって英語の授業が始まるまで維持させなきゃと、ボーナス全部つぎ込んで、個人指導の英会話に行かせました。
 
成果?たいした事はないけど、英語は嫌いにならなかったし、高校受験で有利になるという、英検準2級をとることも出来たかな。

仕事?これもね、ちょっと約束違反みたいな形でだまされた感じなの。
でもね、つらいことは多かったけど、貴重な海外生活を体験できたということで、リフレッシュ休暇として考えることにしました。
 
外の世界を見れたということは、それだけで貴重ですものね。
住むと言うのは、旅行とは全然違うし。週末が連続3日休暇となる時はよく旅行もして、思い出も作りました。

留学中のいざこざで、帰国してからの仕事は閑職に。1年間は遊ばせてもらったようで、今考えれば楽だったなあ。時間になれば帰れるのですものね。

絶対自分は間違ってないから堂々としていよう、と敢えて言い訳もせずおとなしく勉強して時間をつぶしていました。そのうち、誰が悪いのかも自然とわかって、私を必要としてくれる人が現れ、仕事も忙しくなってしまいました。

▼ まだ終わったわけではないけれど、終わりよければ・・・ ▼
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数年後、教授交代でまたまたドラマの中の世界のような状態になり、教授選で負けた側の下で仕事をしていたことから、いろいろ濡れ衣をかけられて、首も危ういところまで行きました。

下手に動いても逆効果ですから、何を言われてもおとなしく耐えて様子を見ていました。時間はかかりましたが、今はまた新しい教授付の仕事に。

定年後に、薬剤師の免許が生かせるような仕事をさせてもらい、勉強が楽しい毎日です。
人間関係では相変わらず難しい面は多いのですが。

毎日、旦那といっしょに通勤し、帰りも一緒。愚痴も聞いてもらって。
ホント、恵まれているとしか言い様がないのかも。
今は、台所以外、ほとんどすべての家事を担当してくれてる旦那様。
こうやって、休みの日にPCに迎えるのも、旦那様のおかげです。

今はだいたい9時、19時で働いていますが、用事のある時は10:30~とか・・・14時に早退とか・・・
人間関係除いたら、気楽な商売なのかもしれませんね。

勉強していれば良いのですから。

せっかく大変な時期を頑張ったんだから、これからは自分を磨くために頑張らないといけませんよね。
 
子供たちも自分の進む道をみつけ、頑張っています。そのための、学費作りにも、まだしばらくは引退できませんが・・・。

▼ 最後に、これからのはたママに伝えたいこと ▼
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最近の若いお母さんの話を聞いていると「熱があると預かってもらえないから、解熱剤飲ませて預けてきた」といい、結局午後に熱が出たからと、園からお迎え要請の電話が入っています。

落ち着いて仕事をするためにも「子供のためにも無理はしない」という考えで行かねば、結局は無理が来るのではないでしょうか。特に、自分が薬の勉強をしているのも手伝って、薬の使い方に問題がある人が、多いような気がしています。

あちこちの小児科を渡り歩き、今私達夫婦が生活習慣病でお世話になっている女医さんに巡り合ってからは、体質改善の漢方を飲ませたり、早目に診察を受けて、大事に至らないようになりました。
 (まあ年齢もあがって病気しにくくなったのもあるかもしれませんが)

その代わり仕事では、この先何の仕事をしなければならなくなるか、先の先まで読んで、今の時点で出来ることを計画的にこなし、休んでも滞ることがないようにしました。私がその頃一人でやっていた仕事、今2,3人でやっています。

やはり、子供を育てながら仕事を続けるって、いい加減な気持ちじゃあ続かないと思います。それ相応の覚悟が・・・。
 
私が今、子育ても終盤に入り、平気な顔をして勤務していること。
若い人は、ずっと同じように「楽勝だった」としか思えないようです。
敢えてこんな苦労があったなんて、言っても仕方ないと思うので、いいませんがね。「自分だけが大変だ」と、言っているのに出くわした時は「そうねえ、大変よねえ、でもね・・・」って話して聞かせています。

私としては、自分が苦労してきたことを、「次の世代の人達には味わせたくない」と思い、応援したいと思ってやっていますが、やはり生半可な気持ちで続けるのなら、女性として頑張っている人達の足跡を、汚すことになるので、家に入ってもらった方が良いくらいに思います。

こういっている間にも、うちの職場では次の「はたママ」が誕生することになりました。

自分に出来る範囲で無理無く、それが一番だと思います。
あくまでも,子供のためを考えてやってください。
「こわい」と思うかもしれないおばさんたちも、実は若い人を応援したいのですよ。