vol.223-「人生の転機」はある日突然やってくる・・・
「人生の転機」はある日突然やってくる
でも、転機はいずれチャンスに変わる。
株式会社 ビジョンテック
http://www.visiontech.co.jp/
代表取締役 真山美雪さん
人生の転機。はある日突然やってくるものです。
▼一度目の転機。
高校を卒業後、カリフォルニア大学へ音楽の勉強をするため留学しました。父方の叔母がアメリカ人と結婚してロサンゼルスに住んでいたので安心でしたし、新しい環境で毎日が、わくわくドキドキの日々を過ごしていました。
しかし、母が病気だからと一時帰国してから、私の日常は一転しました。
▼二度目の転機がやってきました。
一時帰国のつもりでスーツケース一つだけ持って帰国したのですが、母が癌で入院し、その看病や、父、妹(当時13歳)の家事をしなければいけなくなったのです。
アメリカの叔母の家は、ビバリーヒルズの丘の上にあり、使用人が何人もいるような家でした。そんなところでのんきに暮らしていた私は、東京に戻って狭いマンション(LAはガーデンもプールもあるお屋敷でした)で息が詰まりそうだし、しばらく電車やバスにのったことのない私は、満員電車にのると血の気が下がり、倒れそうでした。
そして、今まで全くしたことのなかった、洗濯(父や妹の分も)、掃除、買い物、食事作り、そして、入院している母のお見舞い、などをしなくてはいけなくなりました。母の医療費、入院費は当時の私には想像できない金額で、家の財政状況は日に日に悪化していきました。
それでも、父はたった一人で耐えていたのでしょうが、そのストレスもあり、今度は父がアルコール依存症のようになってしまいました。毎晩、お酒を呑んでではグチを言って絡んでくるのです。それでも、朝には、会社に行ってくれていたのですが・・・
そして、翌年、母は46歳の若さで亡くなりました。
叔母は私にアメリカに戻っていらっしゃいと言ってくれましたが、14歳の妹と51歳の父を残して一人だけ、LAでのん気に留学生活をしている余裕はなかったのです。
マンションを売らなくてはいけないかも。と父は言っていましたが、グランドピアノとアップライトピアノもあり、その上ネコも飼っていたので持ち家のマンションを売って、賃貸に引っ越すにしても簡単ではありません。私も働かなくてはいけないと思いました。母が亡くなって1週間たったある日のことです。
▼三度目の転機が訪れます。
仕事をするには、どうしたらいいか。途方にくれていたときに、ふと、ジャパンタイムスを読んでみようと手に取ったら、「パンアメリカン航空、日本人スチュワーデス募集」という記事が目に入りました。締め切りは今週中。当時の換算でお給料は月30万円くらい。と出ていました。
ひょっとしたら、まだ、英語を忘れていないからなんとかなるかも。と思い、早速、英語で履歴書を書き送りました。
試験は6回もあり、最終面接で本国からの役員面接がありました。2名の日本人客室乗務員を採用することになり、最後の6人に選ばれました。そのときに、君は背が低いし華奢なので、残念だけどキャビンアテンダントは無理だが、成田の地上職に採用したいがと打診がありました。
そして、翌週、その旨のレターがアメリカ本国から送られてきましたが、成田勤務では世田谷から通えないので断りました。
その断ったまさにその翌日に、今度は朝日新聞に「日本航空スチュワーデス募集」そして、その翌週「全日空スチュワーデス募集」がでていて、両方応募して、ラッキーにも両方のエアラインの筆記、面接、体力測定を通過していきました。当時、国際線を自由に飛べる航空会社はナショナルフラッグキャリアだった日本航空だけでしたので、迷わず、JALに入社しました。
試験は1ヶ月半に及び、母が亡くなって4ヶ月がたっていました。たった、半年前までは、毎日家事と病院の往復しかしていなかった生活が一変したのです。それでも今のようにコンビニもファミレスもなく、毎日、妹や父のために家事もしながらの訓練のスタートでした。
幸い、英語に関してはまったく勉強しなくても及第点をとれそうだったので、訓練所での勉強はほとんどした記憶がありません。いちばん困ったのが着物の着付け。15分ほどで、付け帯ではありますが着物を着なくてはいけないというテストがあり、なんども、追試や補講を受けました。
今考えると、私は痩せていて、小柄だったので、着物が大きすぎたのが原因で上手に着こなせなかったんだと思います。その後、何かというと着物デューティー、ファーストクラス担当ということが多かったので、そのとき苦労していて良かったと思います。
▼四度目の転機
結婚、出産。
当時、国際線スチュワーデスというのは非常に人気も高かったので、男性からのアプローチもいろいろありましたが、そんなときJALに入る前のいろいろと苦労しているときから私を知っている5歳年上の彼からプロポーズを受けました。
そして、彼が28歳、私が22歳で結婚。客室乗務員が結婚しても勤務を続けられるようになってからまだ数年しかたっいませんでした。今でこそ当たり前ですが、当時は、結婚したら仕事を辞める人が多かったのです。主人も理解があり、続けてももちろん良いということで、その後、子供ができるまで勤務を続けました。
ママさんスチュワーデス一号が出た年ではありましたが、夫も忙しい仕事をしていますし、とても仕事を続けるのはむりだろうと、諦め、5年間いたJALを辞めました。赤ちゃんはかわいいのですが、誰も助けてくれません。一人で育てていて本当に辛いときもありましたが、同じマンションの先輩ママのおかげでなんとか子育てにも慣れていきました。そうなると、何か仕事をしたい。と思うようになりましした。
▼五度目の転機
仕事開始
娘が2歳くらいになったときに、スチュワーデス専門学校がいくつか立ち上がり、そこでの講師を頼まれたり、IBM情報科学館のスタッフの教育講師をすることになりました。
▼六度目の転機
海外転勤
そして、少し仕事が順調にまわりはじめこれからと思った1987年、主人の仕事で米国のメリーランド、カリフォルニアに行ったり、英国のロンドンに5年間滞在することになったのです。ちょうど良いので、海外で、カレッジに通ったりしていろいろな勉強をすることができました。そのときの経験が今の仕事に繋がっていたのかなと思います。
▼七度目の転機
仕事再開
6年ほど経って帰国したら、日本は昭和から平成に変わり、全てが変わっていました。まるで浦島太郎でした。国鉄はJR。電電公社はNTT。消費税3%も導入されていました。
バブルがはじけ始めた93年3月に帰国したらすぐに、八景島シーパラダイスのオープンに向けて英語のサービスマナーを教えてほしいと、JALの同期から電話がありました。
それをきっかけに、4月の新入社員研修の仕事をし、そのすぐ後、アメリカに留学しているピアニストの妹から父が元気なうちにリサイタルをしたいので、手伝って欲しいと連絡があり、急遽、ピアノのリサイタルのプロデューサーとして仕事(ボランティア)をすることになりました。
そのおかげで、名刺を作り、なんとか自力でパソコンも使えるようになりインターネットもひきました。
ある日、友人からイギリスについてネタがある人を探していると出版プロデューサーの方を紹介され、簡単にパソコンで書いた、企画書が通ってしまい、はじめの共著「ヨーロッパカルチャーガイド・イギリス」が完成しました。その後は、同じ出版社で「ワールドカルチャーガイド・アメリカ」子供向けの本で偕成社「君にもできる国際交流」なども依頼をうけました。
そのころ、キャリアアドバイザーという職業を日本にもという動きがありました。人材開発には欠かせないと思っていたのですが、偶然にも当時キャリアスタッフ(現アデコ)でキャリアアドバイザーとして採用され、そこで、米国のカウンセリングの手法やキャリアアンカーなども勉強することができました。また、そこでキャリアセミナーの講師も担当したり、たくさんの方のカウンセリングを行なった経験は今に生きています。
▼八度目の転機
子育てと両立
帰国してすぐ、娘は大学まである私立の国際学級のある小学校(5年生)に入れたので日本語が不自由でもなんとか東京の生活にも馴染んでいきました。今思うと、彼女にもっとかかわってあげればよかったのではと後悔ばかりですが、特に、ぐれたりすることもなく、お友達や先生にも恵まれ、そのまま中学からは普通学級で高校まで進み、他の大学を受験し卒業し、今では社会人として頑張っています。
気をつけていたことは、今は家庭(娘と主人)は私にとって大切であるということを自覚し、娘に対しては常に「誰よりもあなたを愛しているし大事に思っている」というメッセージを示してきたことだと思います。フリーの仕事ですので、学校行事は必ず出席する、文化祭、体育祭などの日には仕事を入れない。泊まりの出張の仕事はしないなどです。
▼九度目の転機
父の死
仕事がかなり入ってくるようになったころ、父も癌で倒れました。
すい臓がんでした。
98年~99年は、また、家と病院の往復の毎日でした。それを何も言わずにそっと見守ってくれた夫と娘に本当に感謝しています。父の死はいろいろな意味で転機でもあり大変でしたが、結果的には、また、一回り私に自信をつけさせてくれたのかもしれません。休眠状態になっていた父の会社の代表取締役として、個人ではなく法人で仕事をするようになり、仕事の幅が広がりました。
▼十度目の転機
子育て終了
子育てで、誤算だったのは娘を大学まである学校に入れて安心していたことです。高校3年の夏休みに、やっぱり他の大学に行く。と娘が言い出し、塾に通いたいと言われ、なんとかそのまま、上にいってくれないかなと説得しようとしましたが、娘は「私の人生だから私が決める」と意志を曲げませんでした。本人の希望の大学に合格しホッとしましたが、初めての受験でおろおろするばかりでした。受験の年の12月から3月はほとんど仕事を入れずに車で塾の送り迎えなどもできる限りしました。
娘が大学4年になったころ、名古屋で行なわれる万博「愛・地球博」の日本館のアテンダントの教育の依頼を受けました。こちらから、積極的な営業もしていませんが、少しずつ仕事の幅が広がり、現在では、私自身は九州大学大学院と亜細亜大学で非常勤講師や、財団法人女性労働協会「女性と仕事の未来館」のセミナー講師などをしています。
また、昨年はマナーに関する本を3冊執筆して、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどの取材なども多くなっています。今後も、奢ることなく謙虚に、私で何かお手伝いできることがあればしたいと思っています。女性のキャリア支援など面接対策などちょっとしたことで見違えるように変われるということを気づいてほしいなと思っています。思ったことが十分に伝わらず歯がゆい思いをすることもありますが、コミュニケーション、ホスピタリティーマインドをキーワードに今後も勉強を続けて生きたいと思っています。
==>えまぶです。
真山さん、かなりな長編どうもありがとうございました。
これだけのものを仕上げていただくには、相当な労力をお使いいただいたのではないかと思います。恐縮しております。
真山さんは、穏やかなお嬢様から奥様になったというイメージがありましたので、お母様を早くに亡くされていたり、小さい妹さんの面倒をみていらっしゃたりと今回の数々の転機を拝見し、人は見かけによらないなあと思いました。失礼(^^)b
しかし、どの転機ものちのチャンスに結びつけていらっしゃるような気がしました。真山さんのご性格上、お願いすると断れない。そして、責任感が強いことが、次の仕事に結びついていらっしゃるのですね!
また、いろいろ新しいことに挑戦されているんだなあと。
しかし、先駆者だからできることともあれば、逆に先駆者であるがために苦労することも多かったと思います。でも、華麗にそれを切り抜けていらっしゃるように思いました。
看病や結婚、海外赴任、子育てなど、いろいろな女性に降りかかる転機を切り抜け、その時々にできることを精一杯、行っていらっしゃることが今につながっているんだなあと思いました。
子育ても終了された今は、九州や名古屋でのお仕事もされているとか、地理的な影響を受けなくなると、本当に仕事の幅が広がるんですね!
ますますのご活躍をお祈りします。